マインドフルネス

マインドフルネスとは

科学としての禅 – マインドフルネス

マインドフルネス───改めて眺めてみると、なんて胡散臭い言葉なんでしょうか。具体性のかけらもない言葉ですね。ですが、胡散臭いのには理由があります。マインドフルネスは、日本の禅が海外に渡り、科学の手が加えられ、その名で逆輸入されてきたものなので、当然宗教的な雰囲気が残っているわけです。もともとは曹洞宗の禅なので。しかし、これが現在は、心理療法の鍵概念となってきています。マインドフルネスは、学術的に、行動の変容や認知・思考の変容に次ぐ、『注意』の変容に関する新しい手法として有効性が証明され始めているからです。ただ、現状では、研究結果が足りなかったり、研究に不備があったりで、まだ科学という土壌に上がり切れない点は否めません。

マインドフルネス体験を言葉にしてみる

マインドフルネスは、カウンセラーの個人的な体験としては、一つの感情に囚われず、一つの考えに没入せず、過去のことを思い出すでもなく、未来のことを想像するでもなく、今目の前に起きていることや体の感覚を、評価することなくただ在るものとして眺め、拒絶しないようなニュートラルな心の姿勢のことを言うのだと思っています。他の人と比較できるものではないので、たぶんそうとしか言えません。

それは、単純に冷静であるという状態ではなく、今確かに生きている、あるいは生かされている命の温かさを実感し、自分の意志と体が確かにつながっているといった感覚を伴います。一方で、次第に自分という感覚が人間という感覚というよりも、周囲のものと大差ない物体のように感じられ、そこに価値の差はなく、ぼんやりとした意識は自分という殻を抜けて周囲のものにまでふわっと拡大します。手の届く範囲のものや、せいぜい地域くらいは大切なものだと感じられます。まだ未熟だからか、日本全域にまでその感覚が広がったことはありません。よく「人って植物と大差ないよな」とそこら辺の木に親近感を感じたりもしています。マインドフルネスは、一度確立されたアイデンティティが安全に消失する体験、あるいは逆に、アイデンティティが消失しても安全であるという体験と言えるかもしれません。

ネガティブケイパビリティという言葉を生んだ詩人キーツは面白いことを言っています。「偉大な詩人はアイデンティティを持たない」、これは仏教の没我・無我に通じるところがあります。おそらく、詩人であることを忘れ、詩を書こうという意識がないほうが、物事の本質に近づくことができるという境地に至ったのでしょう。ネガティブケイパビリティを持った詩人キーツはマインドフルネスも兼ね備えていたのではないかと思います。

ここらで念のため言っておきますが、書いているのはあくまで公認心理師で臨床心理士です。怪しい人ではありません。マインドフルネスとマインドコントロールを混同しないようにお願いします。

マインドフルネスは五感の解放

マインドフルネスは、簡単に言えば、五感が研ぎ澄まされている状態、いや、そんなにシャープな感じではないので、五感が開かれていると言ったほうがいいでしょう。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚をゆっくりと順に確認していくと、似たような状態に入れると思います。特に危険性はないので試してみても大丈夫です。少なくとも、間違いなく心は落ち着くと思います。

うまくいくと、スポーツのゾーンに入った状態みたいになります。仏教の三昧(さんまい)に入った状態にも似ています。なぜ、座禅では半眼かというと、半分は外界を見て、半分は自分の心を見るという意味があったりなかったりするそうです。それは、目をそらし過ぎても見つめすぎてもダメ、白か黒かではない、中庸さを目指そうとするカウンセリングの態度と同じなんです。

カウンセラー側のマインドフルネス状態

セラピューティックマインドフルネスといって、カウンセリング前にカウンセラーがマインドフルネスの瞑想をしたほうが、しない群に比べて有意にカウンセリングの効果が高かったという実験結果があるそうです。

認知行動療法の一技法として利用されてきたマインドフルネスは、クライエントのためのものから、カウンセラー側の基本姿勢へと次第に変わっていくと思います。なぜなら、いつの時代もカウンセラーに求められる基本姿勢は、同じことが繰り返し言葉を変えて伝えられてきていて、マインドフルネスもまた同じことを表しているからです。

マインドフルネス以前

フロイト時代からの流れを汲む精神分析的心理療法における『平等に漂う注意』

クライエントの言葉だけに焦点を向けすぎず、動作や部屋の雰囲気や、周囲から入ってくる物音や、一見関係がないと思われるような出来事にも、無意識的な関連があるかもしれないので、平等に注意を向けておきましょうということが、最も初期に言われたカウンセラーの態度でしょう。

サリヴァンの『関与しながらの観察』

対象から離れて観察するのではなく、自らもその場にいる者として影響を与えていることを自覚しつつ観察しましょうということです。学者の態度に注意を促す一石を投じました。

ロジャーズの来談者中心療法における『自己一致』

クライエントの話を聴くうえで、カウンセラーは湧いてきた感情を否定することなく眺め、全てをクライエントに明らかにはできないにせよ、なるべく嘘や隠し事のないように、正直であろうという姿勢です。それは、カウンセラーが負の感情を我慢せずにクライエントに出すということではなく、自分の感情に開かれていれば、それほどクライエントに言えないほど強い負の感情を抱かなくて済むということも含みます。『傾聴』、『共感的理解』とともに、最も広くカウンセラーの基本的態度として知られています。

ベックの認知行動療法における『脱中心化』

不安なことがある時、「不安だ・・・」ではなく、「不安だ、と思っているんだな、今の私は」というように、自分のことを少し客観視するような姿勢のことです。メタ認知とも言います。渦巻く感情の真ん中にいては十分に思考できないので、少し離れたところから感情を眺められるようにするための、認知行動療法における概念です。

※フォーカシングや自律訓練法の受動的注意集中は、やや自分に注意が向きすぎているので、ここには入れませんでした。

マインドフルネスは知識の先にあるもの

平等に漂う注意、関与しながらの観察、自己一致、脱中心化、マインドフルネス───これらは全て、知識を追究し続ける中で、精神科医やカウンセラーが自らの力を過信しないようにするための戒めとして生まれてきたような側面があると考えています。自分が知っていることや見えていることが全てではない、あくまで、そのように見えている自分がいる、に留めようという姿勢です。知識を持っているからといって驕るなよということです。なので、逆に言えば、先立つ知識を持たない者がマインドフルネスだけを身につけてもあまり意味がないのではないかと思います。マインドフルネスより先に学べることがあれば、そちらを学んだ方がよいでしょう。まだ精神疾患や心理学的知識に乏しいカウンセラーは、マインドフルネスには手を出さない方がよいと思います。また、クライエントの皆さんは、どこそこの偽カウンセラーの偽マインドフルネスに騙されないように注意してくださいね。